公園の噴水遊びを騒音認定

先日報道された「公園の噴水遊びを騒音認定、「基準超す」と使用停止に(10/5 読売)」というニュースは、ショックでしたネエ。

記事の内容は「噴水で遊ぶ子供の声がうるさい」として「近くに住む女性」の「騒音差し止めの仮処分」の申し立てを東京地裁八王子支部が認め「噴水を使用してはならないとする決定を出した」というものです。

ショックを受けられた方が他にも多数みえたようで、ソーシャルブックマークでもたくさんのコメントが寄せられていました。

コメントの内容は「子どもの声が騒音に聞こえる」ということに対するショックと「子どもの遊べる場所がなくなってしまう」ことを心配される声に二分され、訴えた方を批判的に見るもので占められていました。

簡単な報道内容だけでは当事者の置かれた状況までは判断できませんし、同じ事件を対象とした報道でも「毎日.jp」では、訴えたご本人が「心臓などの病気で療養中」で、スケートボードによる騒音にも悩まされていたことが報道されているなど、限られた報道内容だけで訴えそのものを非常識と決め付けたり、一方的に非難したりするのも少々乱暴だとは思いますが、私自身「子どもの遊ぶ声」が「騒音」として扱われたことには正直違和感があります。

ニュースを読んで最初に頭に浮かんだのは「コミュニティの崩壊」という言葉。

音に限らず人間の感覚はかなり感情的なものに左右されます。実際、我が家の例で考えても、私がちょっと大きめの音量でSEAMOのCDを聴いていたりすると、たいていカミさんから「もう少し小さい音で聴けないの」と叱られますが、注意した当人がいくらも経たないうちに、もっと大きな音量でドラマを見始めたりすると、これはホント腹立ちます。おっとと、これはちょっと脱線。

同じ子どもの叫び声でも、普段顔見知りで親しくしている子ども達が遊んでいる声と見も知らぬ相手が発する声とでは、音量としては変わらなくても受け取り方は当然変わってくるでしょう。声として聞こえるか単なる音として聞こえてしまうかの違いは大きいと思います。

日本は元は農耕民族で家を単位にした村社会が基本だったんですが、経済成長に伴って工業化が進み、新たに会社がコミュニティの中心としての役割を果たすように変わってきました。ところが、グローバル化の影響で終身雇用が崩れ会社もその役割を果たせなくなってしまい、今では、よりどころとなるコミュニティがどこにも見つけられず彷徨っている状態に陥っています。

子ども達が犯罪に巻き込まれる事件が相次ぎ、いたるところに監視カメラが置かれて息苦しささえ覚えるような事態に至り、コミュニティ崩壊の危機も極まった感があります。過剰に権利を振りかざすモンスターペアレントの問題や以上に高い自殺者の数も、人と人との繋がりが薄れていることと無縁ではないように思えます。

今回の事例も、原告が置かれた状況までは分かりませんが、互いに気遣いあうような関係が地域にありコミュニティ全体の問題として考えてもらえるような状況があれば、少なくとももうちょっと違った形の解決方法が選択されたのではないでしょうか。

元々産業界の方を向いて政治を執り行う習性が染み付いた国や行政に多くは期待することができない以上、個人個人が出来る範囲から考えていかないとコミュニティの再生はかないません。

折から、「子どもの運動能力、低下が鈍る 「運動少ない生活定着」(10/8 朝日)」のような報道もあり、運動能力低下の原因として「遊び場の不足」が指摘されています。大人の都合で子ども達の成長にこれ以上しわ寄せがかからないよう、大人の側がもっと努力する必要がありそうです。


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